小沢 武二

小沢 武二(おざわ たけじ)

1896年(明治29年)1月25日 – 1966年(昭和41年)3月29日

層雲で活躍、山麓火と名乗ったこともある。
層雲の主要メンバーと光の会を作るなど、活発に活動していた。
栗林一石路等と「旗」を創刊するなど、プロレタリア俳句運動を推進した時期もある。
その際には、河津 発と変名を名乗っていた。
戦後、加藤楸邨主宰の「寒雷」に参加したこともある。
句集には、「不滅の愛」「悩みの花を開く」「絵の消えた絵馬」「花と絵馬と気球」「散文時代」「春の通った道」「空が芽吹く」がある。

代表句

・そらがめぶいている
・死顔に化粧する紅が見あたらない
・砂丘は秋風の犬つれて少女が遠くなってゆく

略歴

東京市芝区浜松町で出生。
東京府立第一中学校(現在の日比谷高校)を卒業する。
層雲社、横浜生命保険、同盟通信社、時事通信社などに勤務。
層雲の事務を管掌したり、経営権を譲渡されたこともあり、層雲の内部にいたこともある。
直腸潰瘍のため70歳にて逝去する。

芹田鳳車

芹田鳳車(せりた ほうしゃ)

本名・芹田誠治

1885年(明治18年)10月28日 – 1954年(昭和29年)6月11日

層雲の創刊当初より同人となった、古くからの層雲同人である。
句集として「雲の音」「生ある限り」「自画像の顔」がある。

代表句

・蛙遠く跫音もせず暮る二階
・心澄ませば林の奥の滴なり

略歴

兵庫県の網干にて出生。
旧姓は児島誠治、姫路市鷹匠町にある芹田家に婿入りしたため芹田を名乗る。
日本大学商科卒業後、横浜生命保険会社で働く。
横浜生命は板谷生命に名称が変わるが、その頃、支配人兼経理部長、後、取締役になる。
68歳のときに脳溢血で亡くなる。

参考文献

栗林一石路

栗林一石路(くりばやし いっせきろ)

栗林一石路 自由律俳句

本名・栗林農夫(くりばやしたみお)
1894年(明治27年)10月14日 – 1961年(昭和36年)5月25日

層雲に共感し、同人となるが、その後、プロレタリア俳句運動に転換し、荻原井泉水を中心とした層雲と別れる。
橋本夢道らと「旗」を創刊(弾圧により「俳句生活」など、いくつかの名称に変える)。
その後、いわゆる新興俳句弾圧事件に連座する。
小林一茶の評論研究でも知られる。
桑原武夫の「第二芸術論」に対しても批判的だった。
反骨の俳人とも言われる。

代表句

・シャツ雑草にぶっかけておく
・どつと笑ひしがわれには病める母ありけり
・妻よさびしき顔あげて見るか夕空

略歴

長野県小県郡青木村で出生。
10代の頃から層雲に加入。
その後、東京に出て改造社に勤務し、同盟通信社会部長、それに東京民報編集局長や論説委員など、ジャーナリズムの道を歩む。
同時に俳人としても活躍。
プロレタリア俳句運動の道を歩みはじめ、層雲を離れる。
戦中は新興俳句弾圧事件などに巻き込まれ、治安維持法で検挙。
2年ほどの投獄生活を送る。
戦後は新俳句人連盟を作り、初代の幹事長になるなど活躍した。
書籍も句集や俳句論など多数出している。
「俳句芸術論」では桑原武夫の主張する「第二芸術論」を批判した。
の批判をした。
66歳で肺結核により逝去した。

参考文献

私は何をしたか 栗林一石路の真実