細谷不句

細谷不句(ほそや ふく)

本名・細谷雄太
別号・柚翁(ゆおう)
1882年(明治15年)4月 – 1950年(昭和25年)11月

「一高俳句会」に属し、定型俳句を詠んでいたが、河東碧梧桐の門下になり、新傾向俳句、自由律俳句へと進む。
荻原井泉水とも交流、層雲の同人にもなった。
その後、碧梧桐らと海紅に参加し、碧梧桐が海紅を離れた後も、海紅に留まって中塚一碧楼を支えた。
第一高等学校から東京帝大へというコースは尾崎放哉を彷彿させるが、エリートコースを転落した放哉とは違い、不句は医者として安定した職につきながら、自由律俳句界で活躍した。
句集に「不句襍成」「寒林句屑」「日々吟四年間」「日々吟五年間」「日々吟八年間」がある。
医学博士でアララギ派の歌人、細谷雄二は実弟である。

代表句

・串ざしの蛤みな干上がり串太き秋の日
・蟷螂とぶとき身軽うわれらが方へ

略歴

現在の山形県河北町にて出生。
旧制第一高等学校から東京帝国大学医科大学へと進み、医者となる。
東京帝國大学医科大学附属医院や当時、日本領であった台湾総督府医院医長、千葉医科大学教授などを歴任した後、埼玉県志木市で開業した。
専門は耳鼻咽喉科であり、医学博士である。
医学の専門書も執筆している。

参考文献