種田山頭火の絶筆が偽作だった?

執筆者:一山頭火ファン

サンデー毎日の本年(2022年)5月22日号に「種田山頭火の絶筆は偽作だった 該当部分を削除した全集が出版」という記事が掲載されている。内容はと言うと、長野県在住の山頭火研究家である古川富章氏が山頭火の絶筆(=最後に書いた文章)とされていた日記が実は偽物であることを突き止め、これによって春陽堂書店がそれを除いた「新編 山頭火全集7巻」を発行するというものである。

新編 山頭火全集 7巻

そもそも、どうやって偽物だと見抜いたかというと、絶筆とされている日記のコピーを筆跡鑑定に出し、その結果、山頭火が書いたものではないとされたとのことである。この絶筆とされているコピーを春陽堂書店に持ち込んだのはNPO法人まつやま山頭火倶楽部の高橋正治理事長だそうである。高橋理事長の父、高橋一洵氏(故人)は山頭火との交流で知られる人物である。その一洵氏の仏教書に挟まれていたノートの切れ端に問題とされている日記が記載されていたとのことだが、持ち込まれたのは日記の「コピー」であり、日記そのものではないようだ。

文章には一洵氏が登場することから、春陽堂書店の編集者は一洵氏が「自分が山頭火に一番慕われていたように見せたかった」ために偽作したと推測している。また、古川氏は高橋氏に「コピー」ではなく、原本の提出を求めている。

以上が記事の内容であるが、高橋一洵氏は既に故人であるため、真相はわからない。理論的には高橋一洵偽作説以外の可能性もありうる。偽作の決め手となったのは筆跡鑑定のようだが、筆跡鑑定は絶対的な確実性に欠けているとされている。筆跡鑑定と言えば、例えば遺産相続問題の際の遺言書の偽造などが争点となったりすることもあるが、実際、鑑定は参考とはなっても100%確実とは言えないようである。裁判の際、証拠とはなっても決定的証拠とはならないのが実情のようだ。

こうした点からも、潔白なのであれば高橋氏自身、原本を後悔し、自らと自らの父親の汚名をそそぐことが望まれる。いずれにしても、山頭火ファンとしては青天の霹靂と言える記事だった。

種田山頭火

種田 山頭火(たねだ さんとうか)
種田山頭火 自由律俳句
本名・種田正一
1882年(明治15年)12月3日 – 1940年(昭和15年)10月11日

旅を愛した俳人として、各地を遍歴した。同じ自由律俳人として尾崎放哉と並び称されている。放哉の静に対して、山頭火は動と言われる。
荻原井泉水の主宰する層雲で活躍した。

代表句

・うしろすがたのしぐれてゆくか
・まつすぐな道でさみしい
・分け入つても分け入つても青い山

…等、多数。
略歴

山口県西佐波令村の大地主の家に生まれる。
山頭火が11歳の時に母親が自殺した。
旧制山口中学を卒業し、早稲田大学文学部に入学。その後、神経衰弱により大学を退学した。
山口に戻り家業の造り酒屋を手伝うようになる。
その後、結婚して子供を授かる。
荻原井泉水の「層雲」に寄稿するようになり、井泉水の門下となる。
しかし、実生活は上手くいかず、父親の放蕩と山頭火の酒が災いして破産する。
妻子とともに熊本市に行き、古本屋を営む。
これも上手くいかず、妻とは離婚し、東京へ向かう。
この頃、弟も自殺。
関東大震災に遭い、熊本の元妻の所に帰ってくる。
泥酔して路面電車を止める事件を起こしたことから、寺に連れていかれ、それが縁で得度する。
名を「耕畝」と変えて、味取観音堂の堂守となる。
その後、雲水姿となり旅をしながら句作を行なう山頭火の典型的なイメージとなる生活に入る。。
郷里である山口の小郡町に「其中庵」を結庵。
しかし、体調不良などによる精神的な不安定さにより、自殺未遂。
その後、山口にある湯田温泉に「風来居」を経て、松山市に移り「一草庵」を結庵。
この「一草庵」にて念願のコロリ往生をする。
享年58歳。

参考文献

山頭火百句 [ 坪内稔典 ]

山頭火句集 (ちくま文庫)

山頭火百景 さてどちらに行かう風がふく

俳人山頭火の生涯