住宅顕信

住宅顕信(すみたく けんしん)

住宅謙信 自由律俳句

本名・住宅春美
1961年(昭和36年)3月21日 – 1987年(昭和62年)2月7日

1980年代に突如現れ、3年間で281の俳句を残し、わずか25歳にしてこの世を去った。
尾崎放哉に強い影響を受けている。
鮮烈な登場と死と共に、放哉や山頭火に匹敵するレベルの高い句を残した俳人である。
世に広く知られるようになったのは、生前に親交のあった池畑秀一などの尽力による。

代表句

・若さとはこんな淋しい春なのか
・ずぶぬれて犬ころ
略歴

岡山市に生まれ、市立石井中学校卒業後、下田学園調理師学校を卒業。
4歳上の女性と同棲、後、結婚して子供を授かる。
市役所の臨時職員として清掃の仕事をしながら、僧侶への道を歩む。
浄土真宗の僧侶となるが、急性骨髄性白血病を発症。
妻とは離婚し、子供を引き取り病室で育てる。
自由律俳句の雑誌「層雲」に加わり、句作を行う。
層雲を離れ、藤本一幸の主宰する自由律俳句誌「海市」に参加し、後、編集同人となる。
病状悪化し、25歳で永眠。

 

参考文献

ずぶぬれて犬ころ

未完成―住宅顕信句集 (顕信文庫)

住宅顕信読本―若さとはこんな淋しい春なのか

荻原井泉水

荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)
荻原井泉水 自由律俳句

本名・荻原幾太郎のち藤吉

1884年(明治17年)6月16日 – 1976年(昭和51年)5月20日

河東碧梧桐と共に新傾向俳句を志し層雲を主宰する。
その後、季語無用を主張し、碧梧桐と対立、結果、碧梧桐が去る。
五七五のリズムや季語を廃した自由律俳句を提唱し、その後、多くの門人を育てる。
特に尾崎放哉種田山頭火を育てた功績は大きい。

代表句

・空をあゆむ朗朗と月ひとり
・落葉の、これでも路であることは橋があって

略歴

東京芝区神明町で雑貨商の次男として生まれる。
中学の頃より俳句を作る。
東京帝国大学卒業後、新傾向俳句機関誌である「層雲」を主宰する。
当時は河東碧梧桐と共に新傾向俳句を進めたが、後に袂を分かつ。
その原因は季語無用に対する見解の違いにあったようである。
自由律俳句の提唱者として層雲を拠点にして、尾崎放哉や種田山頭火など多くの門人を育てる。
妻の谷桂子と死別。
また母とも死別し、京都にある東福寺の塔頭に身を寄せる。
その後、芹沢寿子と再婚し、長男の海一が生まれる。
日本芸術院会員に選ばれる。

参考文献

一茶随想 (講談社文芸文庫)

芭蕉鑑賞―人生を芸術として

種田山頭火

種田 山頭火(たねだ さんとうか)
種田山頭火 自由律俳句
本名・種田正一
1882年(明治15年)12月3日 – 1940年(昭和15年)10月11日

旅を愛した俳人として、各地を遍歴した。同じ自由律俳人として尾崎放哉と並び称されている。放哉の静に対して、山頭火は動と言われる。
荻原井泉水の主宰する層雲で活躍した。

代表句

・うしろすがたのしぐれてゆくか
・まつすぐな道でさみしい
・分け入つても分け入つても青い山

…等、多数。
略歴

山口県西佐波令村の大地主の家に生まれる。
山頭火が11歳の時に母親が自殺した。
旧制山口中学を卒業し、早稲田大学文学部に入学。その後、神経衰弱により大学を退学した。
山口に戻り家業の造り酒屋を手伝うようになる。
その後、結婚して子供を授かる。
荻原井泉水の「層雲」に寄稿するようになり、井泉水の門下となる。
しかし、実生活は上手くいかず、父親の放蕩と山頭火の酒が災いして破産する。
妻子とともに熊本市に行き、古本屋を営む。
これも上手くいかず、妻とは離婚し、東京へ向かう。
この頃、弟も自殺。
関東大震災に遭い、熊本の元妻の所に帰ってくる。
泥酔して路面電車を止める事件を起こしたことから、寺に連れていかれ、それが縁で得度する。
名を「耕畝」と変えて、味取観音堂の堂守となる。
その後、雲水姿となり旅をしながら句作を行なう山頭火の典型的なイメージとなる生活に入る。。
郷里である山口の小郡町に「其中庵」を結庵。
しかし、体調不良などによる精神的な不安定さにより、自殺未遂。
その後、山口にある湯田温泉に「風来居」を経て、松山市に移り「一草庵」を結庵。
この「一草庵」にて念願のコロリ往生をする。
享年58歳。

参考文献

山頭火句集 (ちくま文庫)

山頭火百景 さてどちらに行かう風がふく

俳人山頭火の生涯