萩原蘿月

萩原蘿月(はぎわら らげつ)

本名・芳之助
1884年(明治17年)5月5日 – 1961年(昭和36年)2月

俳人であるとともに、俳句研究者として知られている。
若いころより俳句に親しみ、俳号蘿月は14歳の頃より使っていた。
内藤鳴雪や坂本四方太をはじめ、自由律俳句に対して、五七五や季語などを強く主張した伝統的な俳句の巨匠である高浜虚子の門人だったという異色の経歴を持つ。
新傾向俳句や自由律俳句を主導した河東碧梧桐荻原井泉水中塚一碧楼等の一派とは異なる系譜の自由律俳人として知られている。
1911年(明治44年)の秋ごろ、弘前高女の教師となるが、その地で触れた津軽の荒々しい自然に感動し、句風が変わることになる。
また、1916年(大正5年)ごろ、従来の「感激主義」から、「感動主義」を提唱するようになり、句風が変化した。
俳風としては、直接的な感動表現を入れることを主張する「感動主義」を標榜したことで知られる存在である。
明治学院大学の教え子に内田南草がおり、蘿月を支えるとともに「感動主義」を継承した。
1913年(大正2年)7月に「冬木」という俳誌を発刊、1928年(昭和3年)には「唐桧葉」を発刊している。
戦後は内田南草が主宰した「梨の花」(のち「感動律」)で活躍した。
著書に「詩人芭蕉」(後、「芭蕉の全貌」に改題)、「芭蕉の精神」があり、芭蕉研究家として著名であった。
他に「史論俳句選釈」「感動律俳句の理論と作品」という著書がある。
句集としては「雪線」や、三女の萩原アツが編纂した「萩原蘿月集」がある。

代表句

・大漁だシャオシャオ蝉が鳴き立てる
・顔を撫でてすべつこくて冬が面白い
・忘る事の願はしう冬に籠り居る

略歴

戸籍上は1884年5月5日生まれとなっているが、前年1883年の12月31日生まれとされる。
父親は芳助、母親はサクであり、その末子として横浜で誕生した。
父は商人であるが、俳句も嗜んでおり、俳号は萩露であった。
1906年に東京帝国大学に入学し、国文科を卒業した。
中学校や女学校の教師、東大文学部副助手、明治学院、東京農大、慶応義塾の講師、1915年(大正4年)には二松学舎専門学校の教授を務める。
最初の妻である茂が死去するなど、3人の妻に先立たれている。
子供は七人いた。
酒癖は悪く、また経済的な面に無頓着だった。
性格が狷介であったこともあり、交友関係は広くなかったが、友人には詩人の北原白秋がおり、よく家を訪問した。

参考文献