放哉の「入庵雑記」考

自由律俳人として著名な尾崎放哉ですが、実は珠玉の随筆も書いています。

これらの随筆は俳句とはまた違った魅力が感じられる作品です。

特に放哉の自由律俳句が前人未到の高みに達した小豆島時代に書かれた「入庵雑記」は放哉ファンなら是非とも読んでおきたいものです。

入庵雑記


「このたび、仏恩によりましてこの庵の留守番に座らせてもらう事になりました」から始まる、この入庵雑記には放哉のこれまでの来歴が自らの視点で語られていて興味深いものがあります。

因みに、作家の死後、50年が経過すれば著作権が消滅しますので、入庵雑記はこちらからインターネット上で読むことが可能です。とても便利な時代になりましたね。

さて、この入庵雑記には近いうちに死が迫っている放哉が、それを自覚しつつ、淡々といろんな思いをつづっています。

夢破れ帰国した放哉は、妻とも別れ、流転生活に入りますが、それは一所不住でさすらったわけではありません。京都の一燈園、知恩院塔頭常称院、神戸の須磨寺、福井県小浜の常高寺、小豆島の西光寺など仏教に縁がある場所を転々としたのです。

まさに冒頭に出てくる「仏恩」というものを感じさせられていたのがわかります。そして、この随筆の中では西光寺南郷庵という安住の地ができたことに対する感謝が語られています。それは俳句の師に当たる荻原井泉水、そして西光寺住職の杉本玄々子、小豆島にいる層雲同人の井上一二に対してです。

この作品の中で自分の来歴について語っていますが、家族のことは語られていません。父母、妻、想い人であった沢芳衛のことには言及されていないのです。おそらく敢えて言及しなかったのでしょう。放哉の意識の中にはこうした関係を絶つことで、仏教の出家に似た意識があったのではないかと思われます。

かと言って、仏教に帰依したと言うわけでもなさそうなところが興味深い点です。この南郷庵でシンプルなライフスタイルを獲得した放哉は仏教に帰依していったわけではなく、自由律俳句に邁進します。安住の地を得たこと、俳句に全身全霊を捧げられること、この点に関して仏恩に感謝しているのではないかと思われます。

入庵雑記において第一高等学校時代についての話が出てきます。そこでは一年上だった荻原井泉水との縁、一高俳句界での高浜虚子、内藤鳴雪、河東碧梧桐のことが記載されています。その後、小豆島に来る前に京都の井泉水宅に転がり込んだときのことが書かれています。また、一燈園での生活についても書かれていますが、やはり家族や仕事と言った人生の大きな部分を占めていたはずの部分は綺麗に削げ落ちています。

おそらく1人の社会人としての尾崎秀雄を捨象することで、自由律俳人の尾崎放哉が完成したのではないかと思います。社会人としての尾崎秀雄と自由律俳人としての尾崎放哉。後者が一般に尾崎放哉のイメージとして流布しているわけですが、前者をより深く知ることが真の意味で尾崎放哉を理解することにつながると思われます。その意味では小山貴子氏が尾崎放哉の女性関係に焦点を当てたように、生活人としての部分にもっとクローズアップしていくことが重要と感じます。

暮れ果つるまで―尾崎放哉と二人の女性

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