中原紫童

中原紫童(なかはら しどう)

中原紫童 自由律俳句
本名・中原礼二
別号・中原光石蕗 成之良
1899年(明治36年)3月6日 – 1963年(昭和38年)11月6日

岡田機外の門人となり、俳句を学ぶ、
その後、「層雲」に加わり、河本緑石、重村百堂などと層雲山陰支部を作る。
号は最初、中原光石蕗と名乗るが、その後、本名の礼二、成之良、紫童と何度か変えた。
また、一貫して層雲にいたわけではなく、何度か入会、脱退をした。
層雲を脱退しているときに、自由律俳句誌の「短律」を刊行していたこともある。
昭和38年に層雲賞受賞。
教育者としても知られており、初代鹿野中学校長でもあった。
亡くなった翌年に遺句集「月がのぼる」が刊行される。

代表句

・自動車が好きで好きで金色の自動車にのつてゆく子
・胸の悲しさ秘めきようも人の子教えにゆく
・夏に痩せ詩に痩せ白き豆腐を愛す

略歴

鳥取県の気高町にて中原久太郎・こよの長男として出生。
教育者として但馬国餘部小学崎分教場、気高郡鹿野小学校、鳥取県立鳥取第二中学校、鹿児島県立加治木中学校などで勤務。
その後、朝鮮に渡り、全羅北道祖里公立高等女学校、慶尚南道釜山公立高等女学校で勤務後、戦争に伴い帰国し、名古屋市私立愛知中学校に勤務。
鳥取に戻り、初代鹿野中学校校長など県内の学校にて勤務する。
肺ガンのため鳥取生協病院にて入院。
その後、64歳にて逝去。

参考サイト

中原紫童